オリンピックにプロの選手が出場していなかった時代、全日本は、アマチュア球界のものだった。世間の知名度という面では、今以上に甲子園のスター選手が№1だった時代だと記憶しているのだが、アマチュア球界の実力者が名を連ねた全日本は、魅力的なチームだった。そんな全日本で主軸を担っていたのが、佐藤真一(たくぎん)だった。走攻守三拍子揃った何でもできる外野手という印象なのだが、個人的には、長打も打てて、ケースバッティングも出来る変幻自在の打撃技術に惹かれていた。当時の社会人野球、国際試合は金属バットを使用していたため、アマチュアでの実績がそのままプロで通用する時代ではなかったのだが、それでも佐藤の打撃技術の高さ、身体能力の高さを活かした守備、走塁技術の高さは目立っていた。
プロ入りしたのは、バルセロナ五輪の後となり、年齢はすでに27歳となっていた。ドラフト4位でダイエーに指名され、入団したのだが、当時大きく騒がれることはなかったと記憶している。それでも、個人的には都市対抗野球やオリンピックでその実力を知った佐藤がプロの世界でどの程度活躍出来るのか?という部分を密かに注目していた。
しかし、佐藤は、ダイエーで結果を残すことが出来ず、わずか3年の在籍でヤクルトにトレードされることとなる。この時ダイエーからヤクルトに一緒に移籍したのは、田畑一也であった。ヤクルト移籍後に大きく花開いた田畑は「野村再生工場の最高傑作」→「野村再生工場の最高傑作!田畑一也! | ヤクルトファンの日記」と謳われるなど、野球人生が一変したのだが、佐藤も中々結果を残せなくとも、守備、走塁、野球IQというものが評価され、しぶとくプロの世界にしがみつくことが出来ていた。ただただ身体能力に任せて野球をしていた選手ではないことは確かだった。
その佐藤が打撃で結果を残すことに成功したのは、プロ7年目となる1999年のシーズンだった。すでに年齢は34歳に達するシーズンであり、個人的にも佐藤のことをレギュラー格の選手とは見ていなかったのだが、印象に残る場面で結果を残すことで徐々に出場数を増やし、シーズン途中からは、レギュラーポジションを獲得してみせた。年齢を感じさせないプレーを見せ、最終的には113試合に出場し、規定打席未到達ながら、打率.341、本塁打13、打点48、盗塁10というキャリアハイの数字を残してみせた。またこの年は、25試合連続安打という球団記録も達成している。凄い記録ではあるのだが、当時記録の割にそれ程大きく取り上げられなかった記憶が残っている。プロでの数字はどこか「いぶし銀系」の選手という印象であり、当時華やかだったヤクルトの選手の中では地味な存在ではあったのだが、野村監督が好きそうな選手であったことは確かである。キャリアハイの成績を残したシーズンはすでに監督は若松監督になっていたのだが、野村監督の下で過ごした3シーズンが佐藤にとって大きかったのではないだろうか?
今現在の選手で似たタイプの選手を探すと塩見ということになるのかもしれない。数字上は明確に塩見に軍配が上がるのだが、地味でもチームに必要な存在で居続けた佐藤も「プロ中のプロ」の選手である。
「何でもできる野球巧者」佐藤真一を忘れないようにしたい。
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