私にとっての「荒木大輔」

選手


私は、1988年からヤクルトファンになった。当時はまだ小学校に上がる前の年齢である。当然荒木大輔がマウンドで投げている姿は、92年の姿からしか覚えていない。しかし怪我で長期離脱となっていたにも関わらず、私は当時から荒木のことを認識していた。それは野球中継の中で「荒木大輔」という名前が出てくることがあったり、スポーツニュースでリハビリの様子を特集されることがあったからだと記憶している。私にとっての荒木大輔は、「伝説の投手」という印象である。
荒木の投げている姿は見たことがなかったのだが、幼かった私は、いつか荒木がマウンドに立つ姿を見てみたいと思っていた。しかし荒木が88年に離脱してから92年に復帰するまで4年という時間が経過していた。保育園の年長だった私が92年には小学校4年生になっていた。幼い子どもにとっての4年間というものは、とてつもなく長く感じる期間である。その間にも私の頭の中で「荒木像」は膨らみ続けていた。そして、優勝争い真っ只中の9月末、神宮での広島戦でついに荒木がマウンドに帰ってきた。私にとっては、初めてみる荒木の投球だった。おそらくリアルタイムで観戦したのではなく、夜のスポーツニュースもしくは、朝のスポーツニュースで荒木の復活登板を見たと記憶している。早稲田実業時代に甲子園を沸かせたスター荒木大輔の1541日ぶりの登板ということで、神宮球場の雰囲気はテレビ越しに見ていても普段と違うことが伝わってきたし、スポーツニュースで繰り返し、報道されるのを見て、改めて荒木大輔という投手が特別な存在であることを理解した瞬間であった。広島の主砲江藤をフォークボールで三振に斬って取った復帰登板は、様々なエピソードとともに語り継がれている。
この荒木復活登板でこれまで以上にチーム一丸となったヤクルトは、阪神との大激戦を制して、14年ぶりのリーグ制覇を果たすことになる。優勝決定試合となった甲子園での阪神戦で先発マウンドを任されたのは荒木だった。子どもでも分かるようなスピードボールを投げ込む訳でもなく、打者を圧倒するスタイルでもなかったのだが、当時の私は、この荒木大輔に絶対的な信頼を置いていた。まだまだ野球を見る目がなかったからこそだとは思うのだが、「荒木は絶対打たれない。」と半ば神格化していたような気がする。シーズン最終盤に登場し、数少ない登板でチームの優勝に大いに貢献してくれた荒木大輔の姿は、まるで野球漫画や映画の主人公の姿そのものだった。存在自体がカッコ良かったのである。
92年の日本シリーズでの力投、93年シーズン、日本シリーズでの力投は忘れることが出来ない。私は、右肘を故障する前の投球は見たことがないので、怪我前と怪我後でどのような違いがあったのかは分からないのだが、92年以降の荒木大輔も常に打者の懐を攻めることが出来る強気のピッチング、マウンドでの堂々とした佇まいが印象に残っている。「THEピッチャー」、それが私にとっての荒木大輔である。
野球を見始め、ヤクルトを応援してからすでに35年が経過し、私はアラフォー世代となった。92年に荒木が復帰した時と同じ気持ちで野球を見ることはもうないはずである。知らないからこそ大きく膨らんでいた「伝説の投手・荒木大輔」が実際に登板した時のあの興奮は、忘れられない。そしてもう二度と味わうことはないのだろう。




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感想(2件)




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コメント

  1. 古川力 より:

    先日は返信有難うございました。
    正に荒木が甲子園で活躍してた頃甲子園を夢見て少年野球で汗を流していました。
    荒木が春センバツで一回戦で負けてしまった頃が印象深くて大府の槙原とかPL西川、地元茨城では日立工業?の永井がベスト8の頃ですかねー
    多分前後しますが中京野中に1ゼロで惜敗した後に筑波大行った宇都宮工のサブマリン荒井とか法政一の遅球王サブマリン岡野とか県岐阜商の加藤とか東海大甲府のサウスポー福田とか同じく東海大甲府で春のセンバツで小学生ながら魅了された後に近鉄D2の吉田とか東海大一だったか漫画タッチのモデルになった杉本兄弟とか昔の方が仮にプロ行かなくても個性のあってワクワクした球児多かったなぁと思う今日この頃です。
    長文ですみません

    • fiys より:

      古川力さんへ

      こちらこそコメントありがとうございます。
      印象に残っている世代は各々ありますよね。
      「タッチ」のモデルになった杉本兄弟というのが気になりますね。全く知りませんでした。

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